体育が苦手なお子さんにとって、運動会は苦痛以外の何モノでもありません。ビリでゴールするところを、全校生とその親が見ているのだから、たまりませんね。
そんなお子さんに、体育が全くダメだった大人からの応援メッセージを贈りたいと思います。
運動会が嫌いな小学生は結構いる
幼少時、虚弱児だった筆者は、しょっちゅう学校を休んでいて、登校しても体育の授業は見学することがしばしばありました。
元々運動神経が鈍かった上、訓練することもなかったためか、泳げない・走れない・鉄棒や球技などとんでもない、といったありさま。運動会は、公開処刑のように感じたものです。
不思議なことにいつもは虚弱なのに、運動会には熱を出すこともなく、登校せざるを得ない状態で、なんて間の悪いカラダなんだろうと恨んだものでした。
体育が苦手で何が悪い!
運動神経は生まれつき?
その上、通っていた小学校は公立なのに、なぜか体育にことさら力を入れていて、筆者のような「ヘタレ」には、とても肩身の狭いところでした。「○○小の恥」とまで言う先生もいて、人間不信になったものです。
正直なところ、体育や音楽、図画工作は、素質が大きく影響します。つまり、上手い子は手を抜いても並以上に上手くでき、ヘタな子は相当頑張っても、なかなか並に届かないという無情の世界なのです。
体育は精神論とセット
不思議なことに、音楽や図画工作が苦手だからといって、先生に厳しく叱られていた同級生はいませんでした。
しかし、体育では、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」「ヤル気になれば誰でもできる」などと、精神論と抱き合わせにして叱咤激励されるのです。
小学生だった筆者は、「自分が虚弱なのは心が不健全だから?」と、凹んだものでした。
また、やたらと勝敗や成績に目くじらを立てるところも嫌で、「1番になれない人の方が多いのに」と白けた気分にもなっていました。
体育が苦手でも問題なし!
何もしていないのに浮上?
ところが、中学・高校へと進むにつれ、特に何もしていないのに、筆者のダメさ加減はだんだんと目立たなくなっていったのです。
成績のほうも筆記試験と「意欲・関心・態度」が加味され、消えてしまいたいほどの情けなさからは脱却しました。
多くの生徒たちが、部活動や勉強にエネルギーを向け、体育に手を抜いていたからでしょうか?
運動会は一時期の悪夢
運動会は体育大会と名称を変えただけではなく、応援合戦や色モノ競技が加わり、体育以外の才能を発揮できる場面が増えました。
障害物競走などに足の速い子は出場しないし、お楽しみ要素も強く成績は問題外。
応援合戦での団旗や横断幕、衣装の作成のほか、音響担当など楽しく参加できる分野もあり、小学校時代の悪夢からは解放されたのです。
体育が苦手でも明日がある
体育嫌いでも運動は楽しめる
現在、筆者は仕事で介護予防体操の指導をしていて、昼休みには時々、職場の仲間とピンポンや軽いエクササイズをして遊んでいます。
年をとっても旅行やドライブ、ハイキングを楽しみたいから、自宅では、エアロバイクやトランポリン、ノルディックウォーキングなどで、足腰が弱らないように頑張っているのです。
健康維持への運動の必要性を痛感してのことですが、純粋にカラダを動かす爽快感を楽しんでもいるのです。
さようなら体育
小学校時代の体育と運動会は、筆者に強烈なマイナス感情を植え付けました。
今でも万国旗を見たり、『天国と地獄』を聞いたりすると、テンションが下がります(子供の運動会では、お弁当は親と一緒に食べなければならなかったので、一応見には行きました)。
しかし、中学・高校と進むにつれて、学校生活の中で体育のウエイトは減り続け、だんだんと体育の金縛りから解放されるようになりました。
運動まで嫌いにならないで
わかったのは体育=運動ではないということ。運動は健康に貢献するためのもので、カラダや心を痛めてまで、勝敗や優劣を競うものではありません。
また、スポーツにはさまざまなものがあり、アーチェリーや乗馬、ボルダリングなどは、体育会系でなくても楽しめます。高校や大学から始める人が多いスポーツは、穴場かもしれません。
仕事に打ち込むためにも、中高年以降も余暇を楽しむためにも、健康が大切です。そして、健康のためにはよい生活習慣が必要で、運動は必須の要素なのです。
お子さんが体育嫌いのまま、全てのスポーツや運動まで嫌いになってしまわないことを、強く願います。
今日のボタモチ
今日のボタモチは【脱却】です。
ある時点でダメだったからといって、それが決定事項になるとは限りません。時が流れ、場所が変わったなら、全く別の局面が展開することは、大いにありうるのです。
※今日はボタモチ1個追加!
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